牡蠣はフライにされてこそ真価を発揮すると私は思うのです

編集者を目指す男子大学生が、趣味で書いた物語を投稿していくブログです。楽しんでいただければ幸いです。

ペットショップで君に逢う

 

 この物語は20××年6月6日に始まり6月8日に終わる。もとより日付などというものは、特に意味を持たない。なぜならこれは、全部夢かもしれないのだから。

 

6月6日  ~夢~

 

 僕たちはペットショップにいた。僕の隣にはまるで遊園地に初めてきた子供のように笑う彼女がいる。いや、彼女──彼女というのとは違うのかもしれない。僕たちはペットショップの二階に上がって行きサルやニワトリなどを眺めている。でも僕が……僕が、本当に見たいのは、そんなものじゃないんだ……。

 

 彼女には顔がない。もっと正確にいうのであれば僕は彼女の顔をはっきりと認識できない。その顔に輪郭はない。雰囲気で愉しそうに笑ってくれていることはわかる。けれど、彼女の顔の周りだけ蜃気楼に覆われてしまっているかの如くぼんやりとしている。いくら顔を近づけても、僕の抵抗はむなしく終わる。ここには距離の概念がないのかもしれないな。僕は思わずため息を漏らす。彼女が心配そうに僕の顔を覗き込む。僕は彼女の顔を見ることさえできないのに。

 彼女には声がない。彼女が僕の冗談に対して時にクスクス、時にキャッキャと笑っていることは分かるし、彼女が何を話しているのか、その内容は認識することができる。しかし僕が彼女の声を聞くことは無い。聞きたいのに、耳を澄ませても聞こえないのだ。しかしなぜ話の内容は分かるのだ。読唇術?いや、それは不可能だ。ご存知。彼女には唇だってないのだから。

 しばらくして僕たちは外に出る。並木通りをしばらく歩く。





 あるはずのない彼女の横顔にうっとりする。その刹那、僕は今までの人生で一回、たった一回だけ味わったことのあるあの感覚を思い出す。たった一回だけ?いつだったか。

 

 そこには故郷の温かさと懐かしさがあった。それと同時に儚さと寂しさもあった。この上ない幸福とこの下ない絶望が振り子のように行き来するような、充実感と喪失感を壺に入れてかき混ぜたような、そんな感覚に襲われた。僕はわずか数秒に圧縮された何年分もの激しい感情の起伏にじっと耐えた。グッと歯を食いしばりながら。

 ふいに、彼女は振り返って僕の顔を覗き込む。まただ。まるで僕の心を見透かしているみたいだ。

 その時、彼女は微笑んでいたが、僕はその微笑みの中に耐えがたい悲しみが含まれていることを感じずにはいられなかった。僕たちはどうやらもう会えない、という予感が僕の脊髄から脳へと伝わってくる。いや、これは予感ではない。直感でもない。悲しいかな、これは事実なのだ。

 

「ねえ、また会えるかしら。できれば、今週中にでも」言いながら、彼女はうつうつとした顔になった。口をへの字に曲げ、目に大粒の涙を浮かべながら、僕の反応を待っている。彼女も知っているのだ。

 

「うわああああああああああ」僕は耐えきれなくなったこの世界を終わらせるため、いつも僕がそうやるように全身で叫んだ。

 

 

6月6日 ~うつつ~

 

 目が覚めた。どうやら僕はこちらの世界でも叫び声をあげていたらしい。僕はその声で目が覚めた。目覚まし時計みたいだな。と僕は思う。便利な目覚まし時計だこと。コスト0、効果保証。

 いや、と僕は気が付く。このアパートだ。身もふたもないことを言うと、防音性は極めて悪い。ここの壁は原稿用紙3枚分くらいなのではなかろうか。今の声がほかの部屋の迷惑になっていないか心配する。しかし、その心配はすぐに別の気持ちにとってかわられることになる。

「またか」先ほどの夢についてだ。

僕はあの夢を小学生の時頻繁に見た。だからあの夢に登場した僕もやっぱり小学生の時の僕だった……気がする。小学一年生の時、親の都合で引っ越してから、やたらとみる夢だった。起きた時は例外なく暗い気持ちになったのをおぼえている。しかしなぜ今になって……僕は今、大学2年生だ。

 

 僕は一度思索を中断し、スーパーマーケットで買ってきたミネラルウォーターをコップにナミナミと入れ、それを一口で飲み干した。今日は大学に行かなければならない。ちっ、いやになるな。僕は最近大学に行くのが億劫で億劫で仕方がなかった。大学で経営学を専攻していたが、最近経営というものにまったく興味がわかなくなっていたのだ。

 

 大学に着くと僕はいつものように真ん中の最前列の席に座った。そしてドストエフスキーの『罪と罰」を開いた。




 もう何度目になるか分からないが、何度読んでも面白かった。独特のリズム感を帯びており、読むたびに新しい刺激をくれた。初めて読んだ時の衝撃は忘れられない。心理描写をこんなに複雑に、そして残酷に書くやつがいるとは。



 登場人物の「へ、へ、へ!」という気の狂ったような笑い方も好きだった。もっともこれはドストエフスキーというよりは翻訳者の工藤精一郎さんの工夫によるものかもしれないが。


「よう。何読んでる?」ヨウだった。

ドストエフスキーの『罪と罰』だ。何度読んでも面白い」

ドストエフスキーって、お前、文学部に行った方がよかったんじゃないか?」

「そうかもしれない」

「実のところ、最近経営学に興味が持てないんだ」

「そうなのか?」

「どうしても俺は経営をする側に回れる気がしないし、第一なりたいとも思えないんだ」

 ヨウはしばらく僕のはなしに共感してくれた。そして、「でも経営者にならないとしても━━たとえ会社に勤めさえしないとしても━━経営学の考え方を知っていることには大きな意味があると思うぞ」と言った。

 それからヨウは経営学がいかに役立つかを僕に伝えるために、SWOT分析PDCAサイクルの考え方を説明した。丁寧だけど、熱く。僕は序盤はやれやれといった態度で聞いていたものの、やがて彼の熱量におされて、たしかに役にたつかもな、と言った。

 僕の返答に満足したヨウは、「なあ、今日ハンバーグでも作らないか」と誘ってきたので、「17時にお前の家に行く」とだけ返した。ヨウは右側の最前列の方へいった。

 僕たちは一緒に授業を受けない。その方がお互いにとってプラスだと考えているからだ。大人数で集まって授業を受けるなんて馬鹿げている。そんなのは群れていないと不安で仕方がない弱いやつのすることだ。

 授業中は昨日読んだビジネス書について考えを巡らせていた。

「失敗とは何だろう。人間が失敗するということは、チャレンジしているということだ。そしてチャレンジした結果としての失敗は、本質的には失敗ではない。財産だ。資産だ。それは血となり肉となって体の中に残り続け、次チャレンジするときに必ず助けになってくれる。それに、はたして成功する必要が本当にあるのだろうか。もし、失敗し続けて、し続けて、そのまま死んでいったとしても、挑み続けたのなら誇りをもって死を迎えられるのではないか。例え一回も成功しなかったとしても。挑戦し続けたと胸を張って言えるのならば、それで御の字だ」

 本で読んだことについて考えを巡らせることは、彼にとって至福だった。かくいう彼はとくにこれといったチャレンジをしていなかったにもかかわらず。





 僕は陳腐で退屈な授業を終えると、一度自宅に戻った。15時だった。ヨウの家に行くまでにはまだしばらく時間がある。アパートの駐輪場に自転車を止めると自転車が一台、ほかの自転車たちに虐げられる様に倒れていることに気が付いた。僕は人を気の毒に思うことは少ないのだが、倒れている自転車はほおっておけない。僕はその自転車をすっと起こし二度と倒れないように端のポールにもたれかけさせた。その時だった。

「にゃああ——にゃあああ」足元に猫がいた。すらりとした三毛猫で首輪をつけている。猫は僕の穿いているジーンズにその頬をこすりつけながら「にゃあぁぁぁぁ」と鈍い音を立てて啼いた。僕は、なんというか、本当に驚いてしまった。僕は猫に好かれたことなど一度もなかったからだ。

 次に猫は僕のボロボロになった銀色の自転車の後輪の雨よけに頬を摺り寄せながらその鳴き声をより一層鈍くさせていた。やれやれ。僕はまんざらでもない笑みを浮かべ二階にある自室に向かおうとした。すると猫もついてくるではないか。僕は自分の部屋の前で立ち往生してしまった。マタタビでも着いたのだろうか。僕はもう少し彼(彼女)と戯れていたい気分だったが、ヨウとの約束もあったので猫に別れを告げサッとドアを閉めて自宅に入った。ホッと息をついた。しかしそれもつかの間だった。「ぎゃあああああああ」外でものすごい声がした。僕ははじめそれが猫によって発せられた声だとさえわからなかった。猫は絶え間なく叫び続る。「ぎゃああああああああ、ぎゃあああああああ」まるで行方不明になった子供を探す母親のように。必死だった。

 僕は今、何をやっても集中できないことが直感的にわかったので16時30分にアラームをセットしベッドにもぐりこんだ。

 

「この猫かわいいわね」ペットショップで一つのかごを指しながら彼女は言った。僕はその猫を見ると鳥肌が立った。さっきの三毛猫がいたからだ。僕はこの場所を去ろう、と彼女に提案した。彼女は何も言わなかったが、僕の眼を見てこくりと頷いた。「君、名前は何というんだい?」夢の中で何とか主導権を獲得した僕は彼女に尋ねると、彼女は何か口元を動かした気がした。けれど僕がそれを認識することは無かった。僕は彼女の頬を両手で優しく包み顔を覗き込んだ。彼女の顔は近くで見てもなぜかぼんやりしていた。僕は絶望的な寂寥に襲われ、絶句してしまった。彼女もあえてその沈黙を破ろうとはしなかった。どこからともなく聞きなれたメロディーが聞こえてきて、その沈黙を射抜いた。

 

ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。ドン、ぴたっ。

16時半だった。

 

 猫の声は止んでいた。僕はベッドから起き上がると少しよろけながらドアの方に歩いていき、ドアスコープを覗き込んだ。そこに移っていたのはいつものようにゆがんだ廊下と手すりだけだった。僕は左手で歯を磨き、右手でTシャツとジーパンを脱いだ。そして右手に歯ブラシを持ち替えると、今度は左手で肌シャツと黒いシャツを着て、チノパンを穿いた。いつもの癖だ。そしてMの家に向かった。 

 僕は4つ入りの卵と玉ねぎとひき肉を買う。パン粉はこの前使ったものがまだ余っているはずだ。食材を買っていくのはいつも僕の役目だ、はあ。

「お前、顔色悪いぞ」ヨウの家に着くと、彼はドアを開けたまま驚き、そう言った。

「とりあえず……入れてくれ」

「ああ、悪い悪い」僕の両手が買い物カバンでふさがっているのを見て、ヨウは苦笑いした。

僕は一辺1メートルほどの正方形の机をはさみ、向かい合うようにして座った。

「厄介な猫がいてね」僕は切り出した。

「倒れている自転車を起こしたら、急に俺になついてしまって——俺が動物に好かれるのは後にも先にも多分これっきりだぜ——最初はかわいいと思ってたんだけどな……その猫、階段上って俺の部屋の209号室の前までついてくるんだぜ。それだけじゃない。俺が別れを告げてドアを閉めたらだな……急に虎の咆哮みたいな鳴き声を出すんだ。ぎゃああああああってな。お前んちに来るのも一苦労だったよ」ヨウは終始真顔だった。

「ホント……もう2度と倒れてる自転車なんて起こすものかって思った」僕はオチをつけてみた。真顔だった。僕も真顔になった。3秒間真顔で見つめあった後、ヨウがプッと吹きだした。

「はっはっはっは!」「そりゃ災難だったな」

僕がホッとすると、ヨウは今度は真顔というより、真剣なという形容が適した顔になった。

「でもお前のその蒼白な顔の原因はそれではない」ヨウは低い声で言った。そして僕の目をじっと見た。そうかもしれない、と僕は言った。しかし、それ以上僕が何も話し始めないのを見て、ヨウは神妙な顔を緩め、「ともかくハンバーグ作るか!」と言った。そして直径100メートルの人々全員を安心させるような陽気な笑みを浮かべた。


 
 ヨウについて少し語ろうと思う。僕たちは大学1年の10月に出会った。確か統計学の授業を受けていた時のことだ。授業が終わるとほかの学生たちは急いで学食に向かったが、ちょうどその日の授業の内容にのめりこんでしまった僕は席に座ったまま教科書を熱心に読み続けていた。完全なる忘我。もっとも幸福な時間だ。僕がわれに返ったとき教室にいたのは僕とヨウ、それに教授だけだった。ヨウは同じことを何度も教授に質問していたが、どうも納得がいかないという表情を浮かべていた。人はよさそうだが頭の回転はさほど速くないらしい、というのが、僕のヨウに対する第一印象だった。

 僕は静かに本を閉じると、耳をそばだてて彼の質問をくみ取ろうとした。そしてどうやら、問題は教授の方にある、と悟った。僕は立ち上がり、彼の方へ向かった。断っておきたいのだが、僕はお人よしではない。重い荷物を運べずにいる老人はこれまで何度となく見てきたが、手伝ってやったことは無い。電車で席を譲ったこともない。というか、電車では座らない。しかし僕は、その時自然に——ほとんど反射的に——彼に声をかけていたのだった。彼には人を引き付ける磁石のような力があった。「そこは片側検定を使うんだよ。君は両側検定をしてしまっている。」僕はそれだけ言ってやった。彼は驚いたように僕を見た。その時の様子を今でもはっきりと覚えている。彼は僕の顔を見るだけではなく、僕の瞳の中にあるものを見ているような気がした。僕も無意識のうちに彼の眼を覗き込んだ。彼の眼にははっきりと僕の姿が映っており、さらにその僕の眼の中には彼の姿があるように見えた。ロシアの人形みたいだ、と僕は思った。

 僕と彼はその後、一緒に昼食をとった。僕が大学生活で、友人と昼食をとるのは後にも先にもこの一度だけだった。単独行動を好んだからだ。その傾向は彼にもあるみたいだった。僕たちは単独行動の良さについてひとしきり語り合った後、いま単独行動していない自分たちを俯瞰し、笑いあった。

6月7日~夢~

 

階段を下りていた。彼女は僕の手を握り締めていた。強く、二度と離れないように。僕もその手を、優しく包み込むように握った。僕はペットショップから出ようと思った。だが、僕の意志でペットショップから出ることは、どうやら不可能なようだった。

「君はペットショップがひどく気に入っているらしいね」僕は試しにそう切り出した。

「ええ、もちろん。私の思い出の場所なの。ここにいると思い出せるのよ。私が初めてあなたに逢った時のことを」

「君が初めて僕に逢った時のことを?」

「そうよ」彼女はそれ以上を語らなかった。初めて……?小学生の時に見た、一番初めの夢のことを言っているんだろうか、と僕は思った。その夢では……だめだ、思い出せない。

 

6月7日~夢うつつ~

 

目が覚めた。そして焦る。どこだココは?数秒たってやっと自分が今ヨウの家にいることを思い出した。僕はどうやら寝てしまったらしいな。夕食を食べた後、僕は読書をし、彼はタブレットでサッカー観戦をしていたことを思い出した。

ヨウは口をあけて5秒に一度ニヤついていた。僕は一瞬ぞっとしたが、思わず「フッ」と吐息のような笑い声を漏らすと、ヨウを起こさないようにそっと家を出た。起こすのは申し訳ない。性夢でもなんでも、いい夢を見てくれ。

歩いて家に帰る間中、僕はずっと彼女のことを考えていた。頭の中で彼女についての情報を並べてみる。僕が何かを考えるときにいつもそうするように。

 

・彼女には顔がない。

・彼女には声がない。

・それにもかかわらず僕は彼女が何を言っているのかがわかる。

・彼女と僕はペットショップで知り合った。

 

夢の中なんだからそういうこともあるか、と僕は思った。夢の中ではあらゆる論理の飛躍ができる。夢の中では!

その時だった。

 

僕が風変わりな男に出会ったのは。朝の4時15分、ヨウの家から坂を下っている途中、僕ははるか向こうの方に動物が群れていることに気が付いた。

しかしそれは1種のみの動物たちではなかった。カラス、猫、サル、鹿……鹿?そこにはあらゆる種類の動物が、全身で自分の内側から湧き出てくるものを表現するみたいに、ぎゃあぎゃあと喚き、ばたばたと体を震わせた。よく見るといままでに見たことのないような奇妙な生き物たちもいる。僕は怖くなった。が、僕の足は、まるで僕から切り離された別の生命体のように、僕をそちら側に運ぶ……

はっ!

僕はその動物たちの中心に一人の精悍な男がいることに気が付いた。阿修羅。なぜかわからないけど僕は彼を見るや否やそう呼んでいた。

僕は動物たちではなく、彼に吸い寄せられていたのだと一目でわかった。彼は美しい顔立ちをしていたが、まるで縄文時代の人のような薄汚れた恰好をし、両掌を胸の前で握るようにして組んでいた。祈りの姿勢だ。しかし彼は祈るというよりは、いま、何かとつながっているんじゃないか。なぜか僕はそう感じた。いいや、確信した。恥ずかしい言い方になるが、それはまるで片手を恋人の手に見立てて、一人で恋人つなぎをしているようだった。彼は両目を静かに閉じていた。が、僕は自分が彼に見られていると強く感じた。彼は僕の外側を見るというよりも、外側を介さずに直接僕の内側を見ていた。その目は穏やかに——しかしはっきりと僕の心とらえていた。そして、僕が彼の五歩手前まで近づくと、とうとう彼はその目を開く。





限りなく紅く、鋭い目だった。そこにはまるで、100人の敵を1人で相手する武士のような厳しさがあった。しかしそこには、苦しい思いをしている人を包み込むような温かさも含まれていた。

彼は引力を持っていた。僕は彼の五歩手前で立ち止まったつもりだったが、僕の足はそれでもなお彼の方にずるずると向かっていった。僕らはそれから長い間見つめあった。

それはほんの20秒だったかもしれないし、5時間だったかもしれない。僕はその間、ひたすら彼の眼の奥にあるものを眺めていた。その中には100人と闘っている阿修羅がいた。貧しい人を救っている阿修羅がいた。素敵な女性と歩いている阿修羅がいた。彼女を失った阿修羅がいた。そこには愛・希望・覚悟・絶望・哀しみ・憎しみなど数多の感情が放り込まれたマグマがあった。僕は息をすることも忘れて、それに捕らえられていた。そしてそれは彼にとっても同じみたいだった。彼の眼の中には絶句している僕の姿がくっきりと映っていた。阿修羅は口を開いた。

「彼女はこの世界にいる。あなたが見つけてあげてください」

今思えば、後にも先にも、僕が阿修羅から聞いた言葉はこれ以外にはなかった。僕は黙ってうなずいた。それ以外の選択肢を持ち合わせていなかったからだ。突然、動物たちがより一層激しく騒ぎ始めた。鳥たちが僕の間近で羽をばたつかせ、僕は立っていられずに尻もちをついた。鳥たちははるか彼方へと飛んでいき、獣たちは坂の上にある森の方へと駆けていった。阿修羅の姿はもうなかった。

 

彼女はこの世界にいる?僕は彼の言葉を反復してみた。僕はこの世界がどの世界なのかもよくわからなくなってきた。僕はその後すぐに家に帰り横になった。頭が混乱する頭をどうにか落ち着けたかった。やがて深淵へと続く階段を一段一段ゆっくりと降りていく。

 

6月7日~うつつ~

 

 朝、目が覚めると僕は大音量で音楽を流し始めた。僕は何か、自分のキャパシティを超えるようなことがあると、いつもこれをやる。阿修羅、現実にそんな人物がいるのか?僕の頭はやはり混乱していた。10分と経たないうちにチャイムが鳴り、出ると隣のおばちゃんがわなわなと全身を震わせながら立っていた。小太りで、分厚い顔をし、こういっちゃなんだが——三度の飯よりも人に文句を言いつけるのが好きな女性だった。僕はドアを開けると彼女はマイケル・ジャクソンもかくや、と思われるほどの金切り声で叫んだ。この人は煩い音楽を注意するために来たのに、これでは本末転倒ではないか。さんざん文句を言った挙句、最後には後の印象をよくするためか、諭すような優しい口調で説教をしてきた。僕は聞いていなかった。もちろんはじめからだ。その間、ずっと阿修羅のことを考えてしまった。「彼女はこの世界にいる」

 

彼女は何回か同じ文句を繰り返していたが、6回目くらいになるとようやく満足したのか、「わたし、もう二度とこんな真似はしたくないんですからね。お願いしますわ」と心にもないことを言った。去っていく彼女に「あの、近くにペットショップはありますか?」気づいたらそう声をかけていた。「は?」彼女は目をギラリと輝かせた。待ってました!と、言わんばかりだ。やれやれ……。「こ・こ・は——ペット飼うの禁止なのよおお!あんた朝から騒がしい音立てるくせに、ペットまで飼おうとして……。ああいやだ、ああいやだ」

気が付くと僕は扉を閉めていた。なによ、きいい。とドア越しに唸る声が聞こえたが僕は完全に無視した。ペットを飼うなんて一言も言っていない。ぼくはペットが欲しくない。世界中の動物とは、常に対等な関係でありたい。

 

この日、僕はしきりに身近な女性にペットショップの話題を出した。ある女の子はデートに誘われたのかと勘違いし、ある女性は懇切丁寧にペットショップへの行き方を教えてくれた。僕は途方に暮れた。「彼女」はおそらくペットショップが好きなのだろうが、ペットショップが好きな女性なんて五万といるだろう。僕は結局、大学の授業を一切受けずに帰り、倒れるように眠りについた。 

 

6月8日~夢うつつ~


 

ぼんやりとして濃霧が漂うような日だった。

 

予定も特にない。どうやって探そうか、僕は迷った挙句、町の方に出かけてみることにした。

僕は今までに一目ぼれというものをしたことがない。また、運命の人なんてものを信じちゃいない。そんなのは自ら行動を起こそうとしない受身的で怠惰な人間の戯言だ。まあ、かく言う僕も自分から行動を起こしたことなんて一度もなかったけれど。

 

彼女の顔と声がなかったのは、それを自分で創れ、というメッセージなのかもしれないな。どんな女の子でも、その夢に出てきた子になりえるのだ、と。僕はふとそんなことを思った。そういえば、彼女の体型も背丈もろくに覚えてやしない。そもそも実態がそこにあったのか。いや、そもそも夢なんだから実態がどうとかいう問題じゃないな。くそったれ!

 

僕は今まで、自分と通りすがる人の顔をあまり見ずに生きてきた。なにがいやかといって、通りすがる人全員が自分をにらんでいるように見えることほど、嫌なことはないからだ。しかし、今日は通りすがる人の顔を、1人も見逃さないようにジックリと観察した。へっ、誰も僕のことなんか見ちゃいない。うれしそうな人、不思議な人、悲しげな人、街の中には実に様々な人たちがいた。僕は何か手掛かりがつかめないか、まず行動に移してみようと思った。失敗したっていいさ。本当に。

 

僕はまずうれしそうな女性に声をかけてみた。

「あの」

「はいっ!」あまりに勢いの良い声が返ってきたので、声をかけた僕の方が驚いてしまう。

「ペットショップを探しているんです」

「ペットお好きなんですか。実は私も大好きでこの前なんか柴犬を5匹も買ってしまってトイプードルは家に7匹もいて──あそうそうこの前なんか猫ちゃんをね」彼女はすごい勢いでしゃべり始めた。それは、三日間の断食を終えた人が、久しぶりに料理を口にかきこむような情景をほうふつとさせた。僕はしばらくの間、ただただ驚いてその話を聞いていた。なぜ初対面でこんなにもベラベラ話せるのか、不思議だ。

「失礼しました。用事を思い出しました」嘘ではない。僕には大事な用事がある。次だ。

 

不思議な女性の時はこうだった。

「このあたりでペットショップを探しているんですが」

唐突に話しかけられて女性は怪訝な顔をする

「あなたはペットショップを探している、」彼女は限りなく深い海の底から聞こえてくるような声で言う。こちらの生気も、深海に持って行かれそうだ。聞いていると息苦しくなってくる。

「そうです。ご存じありませんか」

「つまり、あなたはペットショップの場所を知りたい、」

「え、ええ」

「しかし私はそれに対する答えを持ち合わせていない、」

「は、はあ」

不気味なしゃべり方をする。うまく説明できないが、文章の終わりが句点でなく読点なのだ。もう少し話しそうで──話さない。次が来そうで──来ない。

「わかりました、ありがとうございました。」僕は心を込めて礼を言った。彼女はちりちりの髪を垂らし、何度もペコペコと頭を下げながら去っていった。

 

悲しげな女性は一番声をかけづらかった。なんせ本当に悲しそうなのだ。しかし、彼女には何か惹かれるところがあった。見送るわけにはいかない。

「あの、すみません。」

立ちどまりはしたが、彼女は決して顔をこちらに向けようとはしない。それどころか、うつむきながら露骨に嫌な顔をする。

「あの、ごめんなさい。」僕は内心ひやひやしながら彼女に謝った。


 彼女は少々顔をゆがませたが、立ち去りはしない。意外にも待ってくれているのだろう。僕は恐るおそる口を開いた。

「ペットショップを探しているのですが」

彼女の様子は相変わらずで、目は一度も会わなかった。しかし彼女は非常に的確に近くのペットショップの場所を教えてくれた。三件もだ。


 その三件は方向的に離れた位置にあったので、僕はどれか一件に絞って行こうと決める。

「あの、教えてくださったペットショップの中で二階建てのものってありますか」

僕は夢の中で出てきたペットショップを思い出しながら訊いた。夢の中のペットショップには階段があり、おそらく3階以上ではないと思ったからだ。次の瞬間、彼女は驚いたように顔をあげた。初めて目が合う。僕の方が驚いてしまう。さすがに変な質問だっただろうか。

「一軒だけ……」

「は?……え?……」

「一軒だけあります。二階建てのお店」彼女はうつむきながら、顔を何度か左右に振って、言った。

 

「私の家です」







その女性は僕をそのペットショップまで案内してくれた。髪を後ろで束ね、よく見るとシュッとした顔立ちの女性だった。

 

彼女は歩いているうちに徐々に、しかし着実に落ち着きを取り戻していった。僕はその女性に自分の夢の話を持ち出してみることにした。普通の相手になら、こんなバカげた(と、少なくとも他人は思うだろう)ことを人に話すはずがない僕だが、なぜか彼女になら話してもいいかな、という気がしたのだ。阿修羅のことは言わなかった。彼女は熱心に僕の話を聞いてくれた。そしてそのすべてを聞き終わった後、何かを思い出したように、そっとつぶやいた。


(私、その彼女さんのことを知っているかもしれないわよ。武くん。)

 しかし、僕には聞こえなかった。

 

僕はふと、その女性が先ほどまで悲しそうな顔をしていたことを思い出し、尋ねてみた。

「いえ、別に大したことじゃないのよ。ただ、ちょっと悲しいことがあっただけ。」

 

「悲しいこと?」失礼かもしれないが、僕は気が付くと聞いていた。

「夫がいなくなったのよ。変わった人なんだけど、動物が大好きで。いいえ、動物が彼のこと大好きなの。彼、きっともう戻ってこない。」

 

僕にはそれが誰なのかがすぐにわかった。けれども黙って彼女の話に耳を傾けていた。


 

僕らはペットショップに着いた。外から眺めると決して大きな店ではなかったけれど、うん。温かみのある、和やかな雰囲気のお店だ。それが僕のここに対する第一印象だった。しかし第一印象ではない気もした。僕はすでにここに来たことがある。いや、来たことがあるというよりも…泊ったことがある?宿泊施設でもないのに?中に入るとその人がリスを抱えて立っていた。今度は僕が声を失った。

 

 
 彼女は僕を見た瞬間、僕を優しく包み込んだ。彼女の微笑みは温かくて、このペットショップ全体が、癒しの森になったかのように錯覚してしまった。彼女はきれいに整ったおかっぱ頭で、鮮やかな着物を着ていた。口元には微かな、しかしはっきりとした笑みが浮かんでいた。彼女は僕の来訪を待っていたんじゃないか?まるでリスが春の到来をずっと、ずっと待ちわびているかのように。そんな気がした。彼女と会話をしているうちに僕は少しずつ、すべて思い出していった。

 

 

 完全に忘れていたのだけれど、僕はまだ小学生だったころ、両親と激しい喧嘩をしてすべてを投げ出したくなり、家出をしたことがあった。

 

できるだけ大人に見つからないように、とにかく遠くまで、とにかく遠くまでと歩き続けて、3日間なにも食べずにふらふらになって倒れかけた時、彼女が僕を見つけてくれたのだった。その時は彼女も小学校低学年だった。確か僕よりも一学年上級だ。

 

彼女に助けてもらったあの日、僕らは彼女の家でもあるペットショップで様々な変わった動物を見た。トビネズミ、カエタケフウチョウ、フェネック、僕らは笑いあった。僕は彼女のおかげですっかり元気になっていた。彼女は賑やかな性格ではなかったけれど、人を元気にする才能を持っていた。

 

時間が遅かったこともあって、僕はそこに一晩泊めてもらった。余った布団が無かったので、やむなく僕は彼女の布団に入れてもらい、一緒に寝た。もちろん純粋な意味での「寝た」だ。しかし、彼女と夜明けまで語り合っていると、今までの感じたことのない感情の芽生えに、僕は気が付いた。たった一晩だけだったけれど、僕らは本当に、本当に、深いところまでお互いのことを理解しあえたような気がした。日が昇ると、僕は必ずまた遊びに来ると告げた。今週中にでもぜひまた会いたいわ、と彼女は言った。僕は頷いた。家に帰ると、僕の両親はもう怒っていなかった。しかし顔を蒼くして心配しているわけでもなかった。彼らは僕に謝った。しかし意外なことにそれは喧嘩についてではなかった。「武、すまないが引っ越すことになった。」両親は言った。あまりにも唐突だった。僕は約束を果たせなかった。その日以降、現実世界ではあの感情が蘇ることは無かった。夢の中でのみ、彼女の幻影が出現した。そして僕の無意識の防衛反応が、僕にあの日の出来事を忘れさせていた。今日という日まで。



 

しかし大学生になると、小学生の時にたびたび見たあの夢をまた見るようになった。そういえば、僕は大学進学の際、幼少期に住んでいた地区の大学にやたらとこだわっていたっけ。自分でも不思議だったのだが、どうやら僕の無意識は、ちゃんとここに彼女がいることを憶えていたのだ。そしてこっちに住むようになってから、僕と彼女を出逢わせるために僕にあの夢を見せたのかもしれない。

「待っていたよ。7歳で初めて出会ったときから、ずっと。」

彼女の声は僕が幼稚園の頃、山の中で父親と二人で見た流星群を思い出させた。美しく、透き通る声だ。それは僕の意識の内奥にしみこんで、そして優しく消えていった。

 

それから僕らはペットショップの中を見てまわった。相変わらず変わった動物たちがいるお店だった。でも僕は今、それらの魅力的な動物が全く目に入らないくらい、本当に見たいものを見ることができている。そう、彼女のこの微笑み。それだけだ。彼女の美しい声も聞けている。彼女は僕の中に欠けていたものを満たし、僕は彼女の中にある空白を埋めた。その日以降、僕があの夢を見ることはなくなった。あるいは、この夢から覚めることができなくなった。